奈良時代の湯本開湯から1300年。
江戸の箱根七湯は、大正末に十二湯に、そして昭和を通じて増え続け、令和の今、二十湯を数える。
主峰は神山(かみやま)と呼ばれ、山岳信仰の聖域として長く自然のままに守られ、豊かな温泉をたくわえてきた。
自然の恵みと人間が創り出してきた文化遺産が待つ 「箱根」再発見―。
箱根での開湯は湯本が最も古く、天平10(738)年。全国的に流行した疱瘡(天然痘の別称)から救うために東国に遣わされた僧浄定が、湯本の地に白山権現を勧請し、十一面観音を刻んで修法(しゅほう)を行ったところ、山が裂けて温泉が湧出。
薬効があるとして長く利用されるようになった。この惣湯(源泉)は箱根湯本熊野神社社殿の下にあって今も使われている。
遠く奈良の時代。箱根の温泉は、人々を病から救う不思議の湯だった。そして平安、鎌倉、室町、戦乱の世を経て江戸時代へ―箱根七湯(ルビ:はこねななゆ)と呼ばれる人気の湯治場へと発展していく。
今なお豊かに源泉湛える七湯
江戸時代前期の貞享(じょうきょう)3(1686)年の小田原城主交代にともなう引継記録に、箱根には既に温泉場が七つあったことが記されていたという。箱根湯本、塔ノ沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯―やがて総称して「箱根七湯」と呼ばれるようになる。
箱根七湯隆盛のきっかけの一つは、徳川将軍家への献上湯である。三代将軍家光の木賀温泉を皮切りに、代々の将軍が箱根の湯を求めるようになる。湯本や塔ノ沢、宮ノ下から東海道を江戸城へと汲湯(くみゆ)が運ばれていく。
沿道の人々の間で評判になっていったことはいうまでもないだろう。また、参勤交代で江戸滞在中の大名もしばしば七湯を訪れるようになる。多くの家臣を引き連れての大名湯治。将軍家への献上湯、大名湯治で箱根七湯は多くの人に知れ渡った。
団体での温泉行が盛んとなり、便利なガイドブックが編纂された。江戸後期の文化8(1811)年完成の『七湯(ななゆ)の枝折(ルビ:しおり)』*だ。温湯か冷湯か、味があるかないか、など感覚的な〝泉質〟、歴史、湯宿、周辺の寺社史跡など、七湯を一つずつ絵図入りで詳述。
なかでも「何に効くのか」については「効験」として病名や体の変調をもらさず列記していて、今でもそのまま利用できそうな内容だが、温泉行が盛んになればなるほど利用形態も変化していった。
箱根町立郷土資料館学芸員の高橋秀和氏に話を聞いた。
「もともと箱根は病気の治療のための湯治場です。三巡(みめぐ)りといって、7日間を3回、計21日間、毎日湯につかって病を治すのが温泉利用の基本でした。往復の日数を考えれば、ほぼ一カ月の温泉行です。けっして手軽ではありません。
それが、江戸時代270年という時間経過の中で変わっていきます。一夜湯治の登場です。旅の途中に一晩ないし二晩湯宿に泊まって温泉につかっていく。
こうした一夜湯治が増えていくと、もともと一つの湯宿で三巡りをしていたのが、温泉場巡りをするような利用形態も出てきます。
当時旅人は宿場に泊まるのが幕府の決まりでしたから、客を奪われた形の箱根宿、小田原宿が訴える事態となります。しかし道中奉行は湯宿側に軍配を上げ、一夜湯治が公認された。
一生に一度はお伊勢さんにということで江戸の庶民がお伊勢参りに出かけていく、その行き帰りに七湯に泊まる。旅行ブームのなかで、一夜湯治公認は箱根七湯の大変な追い風になりました。幕末の出来事です」
そして、時代は明治へ――江戸は「東京」と名を改められ、箱根も新しい時代へ入っていく。擬洋風建築の旅館をつくる湯宿が現れ、鉄道と道路の整備が進む。掘削技術の進化によって七湯から十二湯、さらに二十湯へ、箱根全域に拡大していく。
*『七湯の枝折』をすべて収録した『企画展図録 七湯枝折』が箱根町郷土資料館より復刻出版されている。